思い出ずること

 私は浅草で生まれ、十四歳の時東京大空襲がありました。空襲はぽつぽつありましたが、こんな酷い厳しい空襲は初めてでした。まず東京の下町の周りに焼夷弾を落とし、人々を逃げられぬようにしてからのじゅうたん爆撃でした。

 三、四時間のうちに十万の人々が焼死、そして、また火に追われて隅田川などで水死しました。北西から冷たい強風が吹いておりましたので、隅田公園に逃げざるを得なかったのです。私の家は二軒、別々に離れておりましたので、逃げるのにばらばらとなってしまい、独りで隅田公園にたどり着きましたが、大勢の人々でいっぱいでした。だが、強風と背後の猛火の様子を見て言問橋を渡らざるを得ませんでした。でも橋の上は荷を一杯に積んだ大八車やリヤカーと、逃げ惑う人々で満ち溢れていました。

 向島側にも火の手が上がっているようでしたが、風下側の向島の隅田公園に向け、橋の上の人々と、その荷物をかき分けかき分けたどり着きました。

 公園の素堀りの防空壕に退避して、仰ぐ空は赤々と染まり、言問橋も燃え上がり、橋から隅田川に飛び込む人もおりました。家々の燃えさかる火明かりで、腹が赤々と染まったB29が超低空飛行で、ゆうゆうと言問橋を越え、隅田川の上を東京湾方面へと消えて行きました。高射砲隊も燃え失せてしまったのでしょうか。

 夜明けが待ちきれず、家族が心配で火が治まったらしい橋に上がりますと、何か黒いものがごろごろと転がっておりました。

 二つ三つ跨いでよく見ると、それは焼けて素裸の黒焦げとなった人間の遺体でした。 橋の上には焼け焦げて、形をなしていないリヤカーや大八車とともに、沢山の人々の亡がらが溢れており、欄干のところどころにも、何人もの焼死遺体が互いに火を消しあうように、重なり倒れておりました。

 でも、行方の知れない私の家族たちが心配で橋を渡りきり、まだ、くすんでいる無人の焼け跡を家へと急ぎました。夜も明けて、明るくなると、一望千里、東京湾まで焼け野原となり、上野の台地に上野駅が小さく、白く、ぽつんと立っているのが見えました。その遠くの端にお茶の水のニコライ堂の丸屋根がよく見えました。

 当時は木造住宅が多く、鉄骨づくりは少なく、小学校とか浅草松屋などが焼けただれて、透きとおり、骸骨のように、ぽつりぽつりと立っているばかりでした。

 幸い父と妹は辛うじて無事でしたが、継母とまだ生まれて間もない妹は隅田川に流されて亡くなりました。もし一緒に逃げることができたなら、命に代えても助け得たものをと、胸中に涙がこぼれます。

鈴木精志