九死に一生を得て

 その日は朝からどんより曇り、道端の雪はまだ溶けず、風も強く寒い日だった。中学受験を間近にひかえた小学校六年生の私は一途に戦争の勝利を信じていた。
 三月九日午後十一時頃、警戒警報が発令、間もなく解除。再度、警戒警報。数分後に空襲警報の轟音が鳴り響いた。母と家の防空壕に避難していると、外から父が飛び込んできて「早く逃げろ、すぐそこまで火の手がまわっている。」と大声で叫んだ。防空壕から這いだし道路に出ると、B29が数機低空飛行で投下した新型焼夷弾が炸裂し、雨のように降っていた。目の前を荷物や布団を背負った避難者がつづく。その人の波に揉まれながら、母に手をひかれ浅草区立千束国民学校に逃げ込んだ。
 すでに校門の下駄箱辺りは避難して来た人達と荷物で溢れていた。後から逃げてくる避難者に押され校庭を抜け講堂に入った。父、姉、兄も講堂へ逃げて来たので、偶然にも家族五人が一緒になれた。火の手が校舎にまわり火の粉が講堂の中へ吹き込んでくる。扉を固く閉めても強風のため開いてしまうので、父がロープで固く縛った。そのうち講堂の隅に置かれていたピアノが熱でくすぶりだした。恐怖と不安で狼狽する数十名の避難者の様子に異変が起きて来た。酸欠のため呼吸が苦しくなってきたのだ。父が講堂から出ようと皆に呼びかけ、校庭の反対側の公園に抜ける扉を開けた。すると、すぐ足元に赤く焼け爛れた男性の死体があった。私は足が竦んだ。公園の木々は激しく燃え、周囲の民家が燃え落ち、南の方角で浅草寺がめらめらと燃えつづけていた。扉を閉め、校庭側の扉のロープを外し、皆でプールに飛び込んだ。乳飲み子を抱えた家族は、講堂に残り凌いでいた。
 燃え狂う校舎の火の粉が頭上に落ちてくる。水の中に潜って防ぐしかなかった。家族五人は周りの人達と励まし合い、校舎が燃え落ちるのを待った。およそ一時間半後、九死に一生を得た被害者はずぶ濡れの状態でプールから這い出した。校舎内の防空壕に避難した人達の多くは窒息死していた。近くの冨士国民学校ではプールに避難した人達はほとんど亡くなったそうだ。
 五ヶ月後、戦争は終わった。中学一年生の私は日本の指導者に憤りを感じた。

岡崎吉作